出陣
「いよいよだな! 」
「いよいよね! 」
共に会員になっているゴルフコース「糸島カントリークラブ」のスタートホールに二人は立っている
練習場のざわめきやスタッフの声が遠くに聞こえる
しかし私たち夫婦はすでに集中モードに入っている
なぜならば今日は二人でゴルフの決着をつけるラウンドにしようと話し合ったからだ
※ラウンドとはゴルフコースで18ホールを回ってプレイすること
まだ妻に負けたことはないが今年に入って二人のスコアは伯仲している
1月から6月の前半は全て私の勝ちだったが7月から11月の4ラウンドは同じスコアで引き分け
つまり今年最後12月のラウンドで決着をつけようと妻が挑んできたのだ
※スコアはゴルフの成績のこと、18ホールをプレイして基準となる打数72より良かった悪かったで決まる
もちろん私としても負ける気はサラサラ無いのでこの勝負に正々堂々応じることにした
見届人としてお互いの同級生の友人を一緒にラウンドするメンバーに選んで男性2人女性2人の4人で今日はゴルフをすることになった
ゴルフのキャリアは30代から始めた私のほうが、50代中盤から始めた妻よりずいぶん長い
会社員だった私は仕事上の付き合いでゴルフを始めてハマり、同僚や取引先と年に何回かラウンドするようになった
妻は友人とのカラオケや旅行などいろんな趣味を持っているが、
お互い定年間近になり、共通の趣味があったほうが良いかもと妻もゴルフを始めることになった
最初は下手の横好きの私が教えるよりはちゃんと習ったほうが良いということでゴルフ練習場のコーチに一から教えてもらった
練習場で一年以上指導してもらって、実際のゴルフコースにデビューするときは私が一緒に回ったがやはり練習と本番とは色々と違うところがあってスコアを数えるレベルではなかった
それでも妻はゴルフを嫌いにならず、年に何回か練習とゴルフコースに行くようになった
先に私が定年退職すると私のゴルフに行く回数がめっきり減った
やはり会社の同僚や取引先とのゴルフに行く機会が減るとゴルフ自体の頻度が減るのだなと実感した
妻も定年が近くなり、休暇も取りやすくなったので必然的に二人で行くことが多くなった
つまり二人のゴルフの回数がほぼ同じになってきたのだ
そうすると私のスコアは少しずつ悪くなっていき、逆に妻のスコアが少しずつ安定して良くなってきた
これまでゴルフの腕前で妻に負けることなど考えてもいなかったが回数が同じだとスコアの差がないことに愕然とした
妻は練習場でコーチに習って飛距離はそんなに出ないがきれいなスイングを習得している
一方私は独学で人に習ったことがないので飛距離は出るがスイングが独特で自分でもカッコ悪いと感じている
私達の組のスタート時間になった
最初の打つ順番はくじで決めるが男性と女性は打つ場所(ティーイングエリアと呼ぶ)が違うので私の友人と私でくじを引いて私が一番に打つことになった
いざ川中島
ゴルフの1打目はいつも緊張するが今日は特別緊張感がある
戦国時代の武将は命のやり取りをする戦の前はどんな心境だったのだろうか?
もちろんゴルフで命を落とすことはないが負けたくないという気持ちが強い今日のラウンドは武田信玄と上杉謙信の「川中島の合戦」の絵図が頭の中に拡がっている
一度素振りをして構えに入った
あまりの緊張に呼吸が止まっているのがわかるが深呼吸できない
そのままエイヤッとスイングすると良い当たりではないがボールは真っすぐ飛んでくれた
友人が「ナイスショット」と掛け声を掛けてくれホッとした
妻を見ると私が打ったボールなど全然見てない
うつむいて何かを確かめるように握っているクラブを揺らしている
きっと自分のスイングの注意点を復習しているのだろう
あいつも緊張しているなと分かって少し落ち着いた
その後友人が打った1打目もナイスショットで好調の出だしとなった
男性と女性とは飛距離の差があるので、普通の男性が打つ場所からだいぶ前にティーイングエリアが設置されていることが多い
カートに乗って前方の女性用ティーイングエリアに向かった
妻が1打目を打つ準備に入った
深呼吸して構えに入った
その時私は気が付いた、妻の右足のつま先がいつもより少し開いている
「これは右に飛ぶ」と思った瞬間、妻が打ったボールは右方向の斜面に着弾し何度か跳ねて止まった
右のつま先が開いた分狙った方向より右にズレて打ってしまう妻の悪い癖が出た
練習場や緊張していない場面では出ないがやはり本番の緊張した1打目にその癖が出てしまったのだろう
妻の2打目は斜面からフェアウェイ(比較的打ちやすい区域)に戻すだけになり、グリーンまで100ヤードの距離(ゴルフは距離をヤードで表示する、メートルに換算すると100ヤード✕0.9=90メートル位)が残った
私の2打目よりグリーンから遠かった妻の3打目はきれいなスイングで見事グリーンに乗った
最近は一人で練習場に行って上手い人からとにかく100ヤード以内の打ち方を練習しなさいと言われひたすらその練習をしているらしくその成果が出ている
私の1打目はグリーンの手前60ヤードまで来ていた
2打目はここからアプローチ(短い距離を調整して打つこと)になる
妻が頻繁に練習に行くのに対して私は練習が嫌いでコースでラウンドすることがレベル維持の方法だったが定年退職後ラウンド回数が減って色んな部分でほころびが出ている
その一つがアプローチだ
グリーンまで残り60ヤード、このくらいの距離が最近どんどん下手になっている
思いっきり振ると90ヤード飛ぶクラブ(ボールを打つ道具)で3分の2の距離の60ヤードしか飛ばないように調整する必要がある
この調整が下手になってきて最近はアプローチに恐怖心を持つようになってきた
ゴルフをしない人にはわからないだろうがアプローチをミスすることは人前で思いっきり音程を外して歌を歌うことと同じくらい恥ずかしい
だからついつい身体が固まり余計にミスしやすくなってしまう
立場逆転?
夫がアプローチの構えに入った
いつもとリズムが違う、構えに入ってから動き出すまでの時間が長い
「これはミスる」と予感がした
案の定ボールのだいぶ手前の地面をクラブで叩いてボールが10ヤードしか飛ばなかった
うなだれて数秒間動かない
夫はアプローチが苦手になってきている
一緒にゴルフをするようになったときは感じなかったがやはり定年退職してゴルフの回数が減ったあたりからだんだん失敗することが多くなった
一緒に練習に行こうと誘うがほとんど行くことがないから全然改善の余地がない
夫が再度アプローチの構えに入った
今度は構えたらすぐクラブを大きく振らずボールを転がすように打ってグリーンに乗せた
私が3打目、夫も3打目でグリーンに乗った
ここまでは同じ打数で来ている
あとはパターでボールをカップに入れるのに何打掛かるかの勝負
勝負はグリーン上で
「信子さんのほうが謙一さんより少し遠いかな」
と同伴者の友人がカップからの距離を伝えてくれた
グリーンでは距離が遠いほうが先にパッティングをする決まりがある
信子のボールからカップまで約10メートル、一回ではなかなか入らない距離だ
信子が慎重に素振りを繰り返し、打ち出し方向と強さを決めて構えに入った
ゆっくり動かしたパターから打ち出されたボールはカップに向かって一直線に向かっている
しかしボールのスピードが速すぎる気がする
ガシャンという音がしてカップに差された旗竿にボールが当たって1メートルほど跳ね返った
信子のパッティングはいつも強気でヒヤッとする
長い距離でも勢いよくカップに放り込んだりすることがある
経験が少ない人は思いっきり打って結果的に入ってしまうことがよくある
ビギナーズラックというやつだ
続いて私のボールはカップまで約9メートル、こちらも一回で入る距離ではない
だからカップに入れるではなくカップに近づくように距離感重視で狙いを定め強すぎないように打った
結果は狙い通りカップから30センチ手前に止まってそのまま2回目のパッティングでこのホールを5打で終わることが出来た
信子に残った1メートルの距離はそんなに簡単ではない
普通に打つとカップの手前から右に曲がりそうな傾斜がある
しかし信子は構えるとさっさと強気にまっすぐ打ってあっさりカップに入れてしまった
「ナイスイン、強気! 」と信子の友人がビックリした声を上げた
信子も同じ5打でこのホールを終わり、スタートホールは同点となった
敵に塩を送る
その後いくつかのホールで一進一退を繰り返し、前半9ホールを終えた
前半のスコアは謙一が46打、私が48打で2打差でお昼休憩となった
昼食の間は友人の話題や互いの健康の話であっという間に過ぎた
「前半で2打差で負けているけど焦ってはいけない」と自分に言い聞かせた
最近の傾向で謙一は前半は良いけど後半はスコアを崩すことが多い
やはり練習不足・運動不足が原因だと思う
私は普段からゴルフの練習の他にチョコザップに通って短時間でもトレーニングして体力を維持している
5歳の年齢差はあるがそれよりも普段の運動習慣が最後はものを言うと思っている
しかし今日の謙一はなにか違った
後半スタートの10番ホールからパー(基準となる打数と同じ打数)で上がった
それに対して私はボギー(基準となる打数より1打多い打数)になった
続くホールでも謙一がパー、私がボギーになり二人の差が4打にも拡がった
後半3ホール目でも私の1打目は右に飛んでいった
「なんで右に出るん? 」と思わず声が出た
すると謙一がボソッと
「右のつま先が開いとる」と言った
思い出した
コーチも謙一も練習場でボールが右に飛んだときいつも同じことを言っていた
右のつま先が開いてるから身体の向きが右になってその方向にボールが飛ぶと
だから構えのときに右のつま先が開いてないか確認しろと
何十回と言われたのにコースに来ると忘れてしまう悪い癖だ
しかし何で謙一は教えてくれたんやろ、「敵に塩を送った」つもりか?
4打差になって余裕が出たのか生意気な!
でもその塩はありがたく頂戴しよう、次からは絶対気を付けると心に誓った
3ホール目は謙一がボギー、私もボギーで4打差は変わらずとなった
4ホールはすでに謙一が1打目を良いところまで運んでいた
私は1打目の構えに入って右つま先を確認した、「よし!開いてない」
思いっきりクラブを振るとボールはまっすぐにフェアウェイの真ん中に飛んでいった
「ナイスショット」の掛け声が他の三人から一斉に出た
グリーンまで残り90ヤード、ずっと練習場で打ち込んだ距離だ
何の力みもなくスイングしてグリーンの真ん中に乗せることが出来た
謙一の1打目はグリーンまで残り60ヤードまで来ていた、午前のスタートホールでミスったアプローチと同じ距離
ここまでのホールはできるだけグリーンまで40〜70ヤードの距離を残さないように工夫してきたようだが、このホールでは1打目が飛び過ぎて残り距離の調整が上手くいかなかったようだ
2打目の構えに入るとやはり謙一の身体は固まって動かない
打つまでに時間が掛かり過ぎている
このままではまたミスると思った瞬間、スイングに入って今度はクラブがボールの横っ腹を叩いて飛びすぎ、グリーンの奥まで行ってしまった
がっくりとうなだれる謙一に「構えてから長かったよ」と伝えると
「わかってる、動かないんだ」と弱々しい声が返ってきた
気を取り直したようにグリーン奥に向かった
結局このホールは私がパー、謙一がダブルボギー(基準となる打数より2打多い打数)になった
残り5ホールで一気に2打差に縮まった
これがあるからゴルフは最後までわからないと言われるスポーツなのだ
このホールから形勢は逆転し、私の1打目はことごとくナイスショット
謙一はアプローチに苦しみ、ボギーとダブルボギーの連続となり2ホールを残して全くの同点となった
続きはこちら→ゴルフ川中島(夫婦の合戦 後編)
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