初めての料理教室
「はじめまして
今回は男のクッキング教室にご参加ありがとうございます」
マイクを持った女性が前方のスクリーンを背に可愛い声で話し始めた
「今回は料理の初心者向けの講座ということなので
包丁やピーラーなど刃物の取り扱いに気をつけて、怪我をせずに楽しく料理を体験してきましょう」
美人で教え上手と評判の料理家の講座に運良く抽選で当たり、これまでインスタントラーメンくらいしか作ったことがないおじさんが参加できることになった
「まずは包丁の持ち方です」
まさか包丁の持ち方から教えてもらえるとは
中学校の家庭科で習ったような気がするが改めて教えてもらうと安心して使える
しかも先生の手元をスマホで撮影してそれが前方のスクリーンに映し出されるのだからわかりやすい
昔習ったような記憶がある注意点を丁寧に伝えてくれてありがたい
その後食材の切り方や大さじ・小さじの違いなどたぶん主婦なら知っているような料理の基礎知識を20分ほど掛けて説明してくれた
説明の度にスクリーンに映し出される派手ではないが清潔感のあるネイルが施された先生の指先にときめいた
「今日は15名の参加ですので3名ずつ5テーブルに分かれて調理していただきます
それではそれぞれのテーブルに移って自己紹介をお願いします」
と促してくれた
厄介者登場
教室に着いた時に各テーブルの配置図がホワイトボードに貼られており、No.5のテーブルに座った
同テーブルの3人は当然男性で俺ともう一人は60代前半、残り一人は70代に近いかなという感じ
デニム生地のエプロンをしながら、なんとなく俺から
「定年退職して料理くらいできるようになったほうが良いと妻に言われて参加してます
市内から来てます」
と自己紹介を始め、
アンパンマンのエプロンをしたもう一人の60代も
「私は一人身なんですけどこれまで自炊をしてなかったので自炊できるようになりたいと参加しました」
と続けた
最後の70代の男性は仏頂面に似合わない洒落た柄のエプロンをして
「斎藤だ」
と名前だけを無愛想に呟いた
なんだコイツは?! と思ったが服装を見るとワイシャツにエプロンをしてこれから料理をするには相応しくない格好、特に初心者は服が汚れるのが当然なのに
そう言えばピンストライプのズボンと同じ柄の上着が入口近くのハンガーに掛けてあった
若い頃はファッションに凝った俺は相当高価なブランドだと値踏みしていたがそれがこのおっさんの服だったとは
「今日のメニューは手作りチャーシューとラーメン、炒飯です
一番時間が掛かるチャーシューから作り始めます」
先生が大まかな手順を説明し、細かいところは先生と一緒に作業しながら作るので本当にわかりやすい
チャーシューは豚肩ロースの一塊が3人分あるので一人でできる作業だった
タコ糸を巻いたりするのはできそうな気がしたので俺がやりますと鍋と食材を用意した
アンパンマンくんが豚肉の臭み消しのしょうが、にんにくをすりおろしてくれたが仏頂面のおっさんはワイシャツを腕まくりして見ているだけだった
「しょうが、にんにく、調味料を加えたら20分煮込みますのでその間にラーメン作りに移ります」
と先生が声をかけた
「じゃ、次は僕が」
とアンパンマンくんが志願した
ラーメンはチャーシューより切る食材が多い
アンパンマンくんがねぎ、小松菜、なるとを切り、俺がトッピングのメンマを切りスープの調味料を合わせた
ちらっと仏頂面のおっさんを見るとワイシャツのポケットからメモ帳を取り出して何かを書き込んでいる、料理を手伝う気はなさそうだ
アンパンマンくんがスープを作ったら、麺は試食に合わせて伸びないように最後に茹でる工程になっている
どんぶり・レンゲを用意して準備は万端となったところで20分が経った
「チャーシューを裏返してもう一度20分煮込みます」
という声を合図に各テーブル一斉に鍋の蓋を取って覗き込む
我ながらうまそうな匂いと色艶、「美味しそう」と声が聞こえてくる
「次は炒飯作りに入ります」
先生の合図があったので仏頂面のおっさんを見たが全く自分から料理をする気配がない
なんだか先生から視線を外さずに考え込んでいる
まさかこのおっさん先生のストーカーか? と不安になったがもし先生に危害が及びそうなときは張り倒そうと決めた
もしストーカーなら刃物をもたせるのは危ない
そう判断した俺は
「炒飯も俺が作るね」
と平常心を装って言った
炒飯はご飯に混ぜ込む食材が多いので試しに仏頂面のおっさんに
「斎藤さん、玉ねぎと人参を洗ってもらってもいいですか? 」
と頼んだ
おっさんは怪訝な顔をしたが玉葱と人参を受け取ってシンクで洗い始めた
その時他のテーブルの進行状況を見ていた先生が初めて俺達のテーブルに来た
「あらあら、玉ねぎは外側の茶色い皮は剥いてから洗うんですよ」
と優しく仏頂面のおっさんに言った
おっさんの手を見ると茶色い皮が手に絡みついていた
おっさんは怒ったように
「分かっている、今から剥こうとしていたんだ」
と言った
もし何かあったらいつでも飛びつけるようにと思いながら、俺の心臓はアドレナリンを体中に送っていた
先生が通り過ぎてもおっさんは玉ねぎを洗い続け、アンパンマンくんが
「もういいですよ」
と言ってやっとこっちに渡してくれた
常におっさんを視界に入れながら、玉葱と人参をみじん切りにしてシーフードミックスとご飯に合わせて中華鍋で炒めた
鍋振りはテレビでよく見るので真似してみたがやっぱり難しかった
最後に出来上がったチャーシューと卵を加えて再度炒めたら、完成
ラーメンの方もアンパンマンくんが茹でた麺にチャーシュー、のり、めんまをトッピングして完成
完成品を見てアンパンマンくんと笑顔になった
楽しい試食が修羅場に
「皆さん、お疲れ様です
美味しそうなラーメン、炒飯ができましたね
自分で作った料理は最高に美味しいですよ」
と先生が嬉しそうに話しかけてくれる
「それでは一緒に頂きましょう
頂きます」
と掛け声を合図に食べようとすると
仏頂面のおっさんがメモを見ながら俺とアンパンマンくんに話しかけた
「段取りが悪かったね
すべての食材と調理器具を手に取れる範囲に並べておかないと無駄な移動が増える
切る担当と調理担当と言った役割分担もはっきりしたほうが良いね
これらの改善をしたら、10分は作業時間を短縮できるから」
「はぁ? 」
俺とアンパンマンくんは間の抜けた返事しかできなかった
「僕の会社ではさっきの作業は到底受け入れられないよ」
と世界的自動車メーカーT社の名前を出した
どうやら自分はT社の重役で九州地区の統括をしている立場であることを言いたいらしい
俺が定年まで勤めた会社は中小企業、しかも自動車産業の末端にいる
なるほどそれで誰に対してもあれだけ横柄な態度が取れるわけだ
納得すると同時にこいつはストーカーに違いないと確信した
「料理が冷めるので、食べましょうか? 」
とアンパンマンくんが言ってくれたのでやっと食べ始めた
すると仏頂面のおっさんが
「この炒飯、味が薄いな
冷食のほうが美味しいな」
と呟いた
その瞬間、俺の10年に一度の怒りのスイッチが入って大声を上げてしまった
「なにー、
手伝いもせんで見とっただけのくせに
うまいまずいと文句を言うな」
先生が慌てて駆けつけてきた
「どうしました?
何かありました?」
「すみません
何もしてないのに味のことで文句を言われたのでちょっとカッとなってしまって」
と後悔しながら伝えると先生の口から想定外の言葉が出た
「また余計なこと言ったんでしょう!
ここは会社じゃないのよ」
俺とアンパンマンくんは顔を見合わせた
「父が申し訳ありません
父は仕事人間で会社とそれ以外の切り替えができないんです」
「お父さん? 」
「はい、結婚して名字が違いますけど娘です」
先生がうつむいたままの仏頂面に向かって厳しい口調で言い放った
「お父さんの何でもその段取りとか効率とかいうところに耐えられなくてお母さんに熟年離婚されたんでしょう
何度言ったらわかるの
私に頼んでも無駄よ、お母さんは絶対お父さんのところには帰らない」
その後黙々と料理を食べ、さっさと帰った
そしてつくづく思った
料理は何を食べるかより、誰と食べるかで美味しさが決まる
きっと先生のお母さんは自分が作った料理でも毎日まずかっただろうな
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